究極的にいえば。
究極的にいえば、「ママ友」は要らない。
(ほんとうに要らないわけじゃなくて、究極的に言えば…!)
「友だち」って、なんなんだ
みんな一度は「友だち、…ってなんなんだ」と思ったこと…ない?
便宜的に使われる「友だち」。
都合よくつかわれる「友だち」。
自分と相手のなかに齟齬が生まれてすれ違ったとき。
利用されて傷ついたとき。
「友だち、…ってなんなんだ」と思うんじゃないかな。
大変なときに支え合えたり、理解し合えるのが「友だち」だとしたら。
わたしが思う友だちは、「対話を重ねることができる相手」なのかもしれない。
「ママ友」への違和感
「友」なんてことばは、社会人になってなかなか聞かなかった。
同僚、とか、仲間、とかは聞くけれど。
再び耳にするようになったのが、「ママ友」。
この「ママ友」という言葉に違和感があるのは…わたしだけ?
使い慣れない言葉というのもあるけれど…
「わたしたち友だちだよね」という型に入れられるのは窮屈だと感じていたのに、
また、「わたしたちママ友だよね」という枠に入れられてしまうのだろうか。
ママ友である前に人間同士だし、
先生と保護者である前に人間同士だし、
親子である前に人間同士だし…
なんて思っていたら変だろうか。
必要とあらばコミュニケーションもとるのだろう。
関係性が育てば違和感をぬぐうこともできるだろう。
でも今は、感染症流行によって「極力ひとと関わらないスタイル」が染みついてきてしまった。
それで余計に、関係性をはぐくむ手段も機会も限られてしまっていると思う。
目の前に機会が転がっているのなら、前向きに関わっていく方ではあるのだけれど。
引越しや環境が変わった最中、ママ友との関係まで…というのは、マイペースなわたしには荷が重いと感じている。
うだうだしたまま時間がすぎて…
いまだに「ママ友」という言葉への違和感はぬぐえない。
わたしはきっと「ただの友だち」がほしい
友だちなんて、と斜に構えているのではなく、わたしはきっと「ただの友だち」がほしいのだと思う。
型にはめないで話をしたい、という欲がつよいのだと思う。
どんなに分かり合える可能性がある2人が出会っても、最初から分かり合うのは難しいだろうに…
「ただの友だち」と言いながら、理想が高すぎるんだろうな。
きっと、よくばりなんだろうな。
わがままなんだろうな。
自分の真ん中だけを抽出してまっすぐに話してしまうと…
言葉足らずで誤解を招きがちな自分がいることも、たまには自覚している。
そうだなあ…
話す機会が重なったり、何かきっかけがあったりすると…
入口は「ママ友」でも、「ただの友だち」と言える関係になれるかもしれない。
わたしみたいに内弁慶でも。
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ちなみに。
音声配信は、職業・肩書・見た目を排除している。
話し方や話題えらび、人との関わり方で立ち現れる「その人」がある。
声の印象はついてまわるけれど…
わたしにとって、普段では出会えない形で対話ができる手段なのかも。