シラフでの対話力(話す力)は、アルコホリック(アルコール依存症)を予防するのだろうか。
と、ふと、思った。
なので、備忘録的に書き留めておきたい。
「病(やまい)をそれと認めない」病(やまい)
「風邪」だとか「ガン」なんかは比較的、自他ともに「そうである」と認めやすい。
病気や病(やまい)と言われるものを本人が認めるかどうか…。
病のなかには、「病を認めない病」、があって。
その身近な例は、アルコホリック(アルコール依存症)だと思う。
アルコホリックは…
重度になってもなお認めない人のほうが多い病気。
(もっとも、風邪すら「ひいていない」と言い張るひともいるだろうけれど。
周囲から見ても熱や鼻水などで分かりやすいほうかな。)
日常に絡みつく依存症の罠
お酒は多くの大人が飲んでいるし、まさか自分が、となると思う。
アルコホリックは段階的に進んでいくうえ、
認めてしまえば、依存して(頼って)いるお酒を断たなくてはならない。
しかもお酒をやめるということや、病を認めることが、
かなり大きく生活や人間関係を変えてしまうから…
けっこう依存している段階で、自分からお酒と距離をとることを決断できる人はほとんどいないと思う。
(いたら、それは素晴らしいことだし、周囲の手助けがあるのかもしれない。)
お酒は少しずつ、少しずつ、心身をむしばむ。
アルコホリックだと認めざるを得ない段階には、日常生活や人間関係が成り立っていないレベルまで進んでいることが多い…
と言われている。
(明らかに生活が崩壊していても認めない人もいる)
軽度~中等度の依存状態にある人は、案外と身近にいるんじゃないか。
「ちょっと困った人だけど、あの人が病気だとは思わない」という考えがあって、
「自分はまだまだ大丈夫」と思ってしまう。
耳の痛い話をしているようだけど、そうはいっても、わたしも妊娠・出産から数年たって、最近はときどき飲んでいるし、お酒の楽しさも知っている。
でも実際、いちばん目に見えない、まぎれやすい依存症って怖いなって思う。
当たり前のように日常や社会生活に溢れているのに…
いや、当たり前のように身近にあるからこそ、怖く感じるんだと思う。
もし、わたしが徐々にアルコホリックになっていった場合、誰がそれに気づき、助け出してくれるだろう…?
身も心も健康で強い人もいるだろうけれど…
「わたしは大丈夫」と思うことは、わざわざ自分の人生でギャンブルをしているようなものではないかと考えてしまうことがある。
「優しさ」で苦しまないために
状況的に、どうしても飲酒の機会が多くて…という積み重ねが体を壊すこともあるかもしれない。
でも、すこしずつ依存していくなかでは、習慣的に自宅で飲むことが増えるのがほとんどだと思う。
わたしの限られた経験上…
自宅でお酒を手放せなくなっていくときは、適応的だけれど「優しすぎる」、「なんでも抱え込んでしまう」… という人が多いと感じている。
ストレスを抱えたときに、外に出すよりも、内側に…自分に矛先があるような印象がある。
誰かを傷つけない優しさが、自分を少しずつ弱らせていくのだとしたら、切ない。
(依存がすすむと、最終的には外側にも攻撃性がむかってしまうし…)
そうやってぐるぐると、このことを考えていると…
素のままで抱え込まずに話せることって、話せる場所や相手がいることって、大切なんじゃないかというところにたどり着く。
飲みにケーションに頼らず、ね。
友達も、パートナーも…
素直に自分を出し合う文化の上では出会いやすいし、これからの対話もできると思う。
普段の生活では、「余計なことをいうな」「周りにあわせろ」「空気よめ」という文脈のなかで生きているひとも多いと思うから…
だからこそ、周囲に添うとか空気を読むのでなく、きちんと対話できる文化のなかで相手を選んで心を開いていくと、関係性をはぐくみやすいと思う。
…それって、
言うは易しで、すっっっっっごく、難しい!!!
だから本音の部分で話すための潤滑油が必要で、飲みにケーションが発達したのかしら。
それが潤滑油の域を超えると…。…。
自分をおさえつづけるのは本当にストレス。
でも、自分の本音を上手に出す経験が少ないと、それすら大変で…
アルコールで前頭葉機能をちょっくらマヒさせて(あるいはその体(てい)で)本音を話すしかないときも、きっとある。
そうか、シラフでの対話力UPや、その機会があることが、アルコホリックを減らすのかも?
なんだか、自分の本音をうまく人に伝える、相手の本音を上手く受け取る力って、すごく尊いな…
人間、よい時もわるい時もある。
もっと、対話力、UPさせていけたらな。
本音で語り合う機会を増やしていけたらな。
今回は、「対話する力」と「アルコホリック」について、徒然なるままに。
にわとりとたまご、どちらが先か問題みたいに…ぐるぐるしちゃうね。